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あひるの日記

あひるの日記

礼拝のメッセージ2004/5月分

5/2(日)のメッセージ
「恵みのゆえに、信仰によって」エペソ2:1~10

救われる前、私たちは「この世の流れ」、「空中の権威をもつ支配者」、「自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行う」生き方に支配されてきた。
私たちはいろいろな関係の中で翻弄されてきた。
私たちは神様に対して背を向けて好き勝手に生きてきたという点においてと神様の関係において「自己責任」が問われるべきである。
しかし、神様の一方的な哀れみによって救われ、私たちは新しく蘇ったことで新しい生き方を選択できるようになった。
私たちが救われたのは、恵みのゆえに信仰によって救われた。
多くの救われた私たちクリスチャンは、本当の意味での「救い」が分かっていないために、喜びとなっておらず、魂の意思が古い生き方を選択してしまうのである。
私たちの救いは、努力や経歴(行ない)から救われたのではなく、神様が救いの手を差し伸べられた一方的な恵みによるものである。
私たちは誰でも他人から認められたいという欲求を持っているが、それを完璧に受け入れられるのは神様だけである。

私たちクリスチャンは神様に認められようと一生懸命頑張っているが、
神様はあなたを認め、受け入れ、愛しています
神様の愛を味わいなさい。
私たが神様の前に何かが出来る出来ないに関係なく神様は愛して下さっているのである。
律法は、私たちがどう生きるべきかの指針となるものである。
しかし、律法主義に陥らないように!
イエス様は律法主義は「救い」をすべて無駄にするものだから、闘った。
神様は律法主義を愛されない。
私たちは律法主義を捨てるべきである。

5/9(日)のメッセージ
<正しい信仰> ダニエル3:13~18

神様の言葉を心で受け取るとき、私たちは神様から大きな恵みを受け取る。
現代文明は、早く経ちすぎる相対化の時代で、自力で自分を守れるかどうかの不確実な時代である。
私たちは、すべてが状況によって変わるところに立っている。
私たちは、神様に対する信仰が、絶対的価値観となっているだろうか?
信仰は、この世に勝ちゆくための鍵である。
この聖書の箇所では、ユダ民族がバビロン捕囚にあって、シャデラクとメシャクとアベテ・ネゴの3人も連行されていた。
彼ら3人は、ネブカネザル王から認められて州事務を任されていた。
彼ら3人をねたむ本国の人が金の像を建てて、奉献式の時に本国の人がこの偶像を拝んだけれども、彼ら3人は拝まなかったということで、燃え盛る火の炉の前に立たされた。
彼ら3人は、偶像を拝むか死ぬかの究極の選択を迫られていたが、彼らの信仰は一貫しており、神様との関係を譲ることをしない絶対的な信仰を持っていた点で私たちの信仰と異なる。
彼らの信仰のポイントは、
その1、心を共にして神様に対する真理を譲らなかった。
その2、炉から自分たちを救い出して下さるという神様の労力を信頼した。
その3、神様の御心に従順に従った。
私たちは、一時的なピンチや喜びとかのために妥協してしまう弱さがないだろうか?
自分の計画が失敗したり試練が来たときであっても、神様を信頼していきましょう。
正しい信仰とは?
⇒私たちの意志を成し遂げていくものではなく、神様の意思に従って生きる 神様の意思と栄光に焦点を合わせていく信仰  
神様は、私たちがどのような状況にあっても、私たちの手を握り、私たちを愛し、助けてくださる方である。

5/16(日)のメッセージ
《自分の人生を生きる》第2コリント10:12~18
私たちの日常生活でコンピューターに関するニュースが多いが、その中でも私たちはコンピューターウイルス対策をしても、スパイラルウイルスはアンチウイルスソフトでは効果がない!
私たちの考えの中にも、神様を見ようとしても、全然違うものを見てしまうスパイラルウイルスのようなプログラム(思考回路)が存在する。
そのような考えを駆除する御言葉を学びたい。
5月2日の礼拝では、律法主義の考えについて学んだ。
(2004/5/2の礼拝のメッセージのページ参照)
今回は、<b>比較主義という考え方の落とし穴について学びたい。
律法主義の根底には、自己義認(自分が正しいと人に認めさせようとする)がある。
大抵、私たちは他人から認めてもらうために、どうすればよいかを考えるけれども、問題なのはそう出来なくなったときにそこに価値がなくなってしまう点である。
けれども、私たちにとって大切なのは「神様から認められること」である。
ローマ4:1~5で、信仰の父と呼ばれるアブラハムは、神様を信じたことで、神様から義と認められている。
私たちは神様の欲求を行ないで完全に満たすことは出来ない。
私たちは神様を信じて救われることで、すでに神様は認めてくださっている
他人の評価は、その他人の利益にかかわっているから、いくらでも変わるものである。
私たちは、他人の評価に自分の存在価値を振り回される必要はない!
しかし、私たちは生憎比較主義というスパイラルウイルスが入っている(感情に従って生きている)から、他人の評価や態度・言葉に反応してしまうし感情のUPDOWNがある。そして、聖書的な生き方でないためにそこには平安がない。
私たちには2通りのタイプの人がいる。
1、EMP型(ELSE MOTIVATED PERSON)
 ⇒他者によって自分を動機つける人。
  このタイプの人は、自分の考えがない。
  「人がこうするから自分もこうするという」行動パターンをとる。
  (日本人にはこの典型的な人が多い。)
2、SMP型(SELF MOTIVATED PERSON)
 ⇒自分によって自分を動機つける人。

いずれのタイプにせよ、クリスチャンは聖書を土台とした決断の出来る人に成長してもらいたい。
そうでないと、いつまでたっても比較主義の中で生きていくことになる。
比較主義の生き方に気づいたら、その生き方をやめるべきである。

(悟りと神様に対する宣言)
私たちの価値を決めるのは神様である!
聖書は、神様が私たちの生活や信仰の規範を示すものである。
第1テモテ1:18で、パウロは弟子のテモテにエペソの教会を任せるにあたって、神様からの預言を通して神様が与えてくださった人生に対して、そのように生きていきなさいと命じられている。
神様があなたに語りかけられる言葉によって生きるとき、勇敢に戦い抜くことができるのである。
神様の言葉によって私たちをしっかり立たせてください。
その生き方を選択し続ける結果によって、永遠の行き先が決定していく。

5/23(日)のメッセージ
《クリスチャンの礼拝》ヨハネ4:20~24
クリスチャンとは?⇒キリストの弟子
世の人は、何かにすがりたいという思いから偶像崇拝というまちがった方法しか思いつかないが、私たちクリスチャンは霊とまことによって礼拝する。
全世界を造られた神様は、私たちが神様と人格的な交わりをする存在として造られた。
礼拝にはいろいろな面がある。
神様の私たち人間に対する愛の表現
⇒ヨハネ3:16「ひとり子イエスを世に遣わされた」
 マタイ5:45「良い人にも悪い人にも太陽を上らせ、雨を降らせる」
私たちも、神様に対し、行ないを通して愛を表現することも必要である。
礼拝では神様に対する従順と謙遜が欠くことのできない要素である。
マタイ25:31~46「最も小さい一人にしたことを、神様は私たちに求めている。」
創世記22章で、アブラハムは息子イサクを捧げる行為を通して、神様に従順を示した。
イエス様は傷だらけの体で十字架をかつぎ主の御心に最後まで従った。
聖霊によらなければ、兄弟姉妹を愛することが出来ない。

5/30(日)のメッセージ
《使命の上に注がれる神の力》 第1サムエル16:6~13

使徒2章では、弟子たちが一同に集まって祈っている所に、聖霊が下り、人々が取り扱われ、異言を話し出した記事が書かれている。
第1サムエル記で、主人公はダビデであるが、預言者サムエルも登場する。
神様はイスラエルの王としてサウルを王に立てたが、神様の働きをしなかったために、新しい王を立てるため、エッサイ(ダビデの父)のところにサムエルを遣わした。サムエルは、見た目でダビデ以外の子が王となると思ったものの、神様は、エッサイの末っ子のダビデをイスラエルの王として選ばれた。
「人はうわべを見るが、主はその心を見る。(第1サムエル6:7)」
サムエルは、動物の角を取って兄弟たちの真ん中でダビデに油を注いだ。
油⇒神様の力を象徴するもの
油を注ぐ⇒神様のために、選んで聖別する。

油を注がれる対象は、旧約の時代では祭司や王、指導者たちの中でとりわけ神様から選ばれた者だけだったが、今では神様を信じる者は誰でも油注ぎを受けることが出来る。
ダビデは、油注ぎを受けた日以来、聖霊から激しい力が下った。
日本のリバイバルミッションの働きでは、神様の臨在で人々が倒れたため、怖くなって車で教会に戻ったものの神様は彼らを追いかけて教会に主の臨在が訪れ、そのリバイバルは日本各地に飛び火したという。
聖霊のバプテスマの受け方は、自然と祈っているときに与えられる人もいれば、何年も祈り続けてようやく与えられるなど人それぞれである。
第1コリント14:2,5,18において、異言についての大切さについて述べられているが、魂を仲介しない神様との交わりで導かれていくことで、私たちの徳を高め、行動を変えられていく。
1900年より、ペンテコステ系の教会は、急激に成長してきたが、その原動力は、魂によって生きるよりも霊によって生きることで神様の働きが前進してきたからだといえよう。
神様はすでに私たちに聖霊を与えてくださっているから、満たされ続けていくためにも異言を与えられている人は異言でどんどん祈っていきましょう。


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